うちの娘もゼミのS教授と私の意見が違うので困るとよく言う。
面白いのは、そのS教授の娘さんもSFCのY先生のゼミ生で、やはり教師と親の意見が違って困ってるという話を聞いたことがある。ww
まあ、娘の卒研に親が口を出すということ自体が問題なのかもしれないが、同じ分野が専門なのだから気になっちゃうんだもん。
私が好きでよく読んでいるhysmrkさんという方のブログに「東洋と西洋のはざまで」というエントリーがあった。
以前も「知識とスキルと態度の学習」というエントリーをご紹介したことがあるが、心の中でもやもやしていることをスキッと書き表して「おお、なるほど。」と唸らせてくれる文章は私の中では内田樹先生と双璧をなしている。
まあ、話としてはデザインの評価ではなくて講評の話なのだが。当の講評者である教員よりも、学生の方が必死に聞いているものだということなのだが。
以下抜粋です
帰り道に、中吊り広告で村上春樹のエッセイ「村上ラヂオ2」が出ているのを知り、近所の本屋で買って帰ってきた。その中の一つのお話。村上さんがアメリカの大学でクラスをもっていたとき、他クラスの女子学生が課題で書いた短編小説を読んでほしいともってきた。読んでみたら、比較的アドバイスしやすいもので、「説明的に流れる部分は冗長だが、そうではないところはけっこう生き生きしている」と批評したら、彼女は戸惑った顔をしたという。彼女のクラスの先生は、村上さんの褒めたところを批判し、批判したところを褒めた。村上さんは「創作というのはまあその程度のものなのだ」と書いている。
創作っていわれると、作品っぽいものをイメージするけれど、医療だってまぁ、どこに問題を置き、どういう問題解決策を導きだすかは、医師の創作活動みたいなところがあって、まぁ確固たるものなんてないんだよなぁと。極端なことを言っているかもしれないけど、そうだと思う。だからセカンドオピニオンとかがあるんだろうし。医師によって診断結果が違うのは、もちろん能力差による違いもあるだろうけど、タイプによる違いもあるんだろうなぁと。
アッシュさんの研究によれば、52人の患者を3人の精神科医がそれぞれ診断したところ、3人の診断が一致したのは約1/3、2人の診断が一致したのが約1/3、3人がばらばらの診断をしたのが約1/3だったという(「カウンセリングの技法」國分康孝著)。まぁどんな分野も、だよなぁと。
「創作というのはまあその程度のものなのだ」ということなのだが、教員というのはその立ち位置や思想、所属するコミュニティーを明らかにして「偏った講評」をする必要があるのかもしれない。
そういえば先日も、GMOメディア社で行ったワークショップの講評で「これ良くないですね。」と言ってあるチームをくさらせてしまったことがある。
後でそのチームを呼んで「今回のワークショップはHCDのプロセスを使ってという課題だから、それに特化しないと講評しようがなかったからです。」とフォローを入れた。
本来モノ作りには「ビジネスニーズ」「技術シーズ」と「ユーザー情報」が必要なわけでユーザー情報だけでデザインしろと言うのはベテランには三位一体の物から一つ抜き出して根拠にするようでやりにくいこと甚だしかったのだろう。すいません無茶な事させて・・・。
このケースは講評の根拠を明らかにしたもの。それならば聞いた制作者は「この方向から見るとそうなのか。」と納得出来るはず。
今日はとりとめなくなっちゃたけど、これでおしまい。 10月16日(日)の早朝