上野谷中墓地で墓参り
2016.04.03 Sunday
3月26日(土)、三分咲きの桜の上野谷中墓地。
先週のお彼岸にはばたばたしていて、出来なかった墓参りに来た。
私の母方の祖父は、神谷バーの神谷傳兵衛と組んで「蜂印香竄葡萄酒(ハチブドー酒)」を作った人の一族で。
販売を担当して、日本では一番初期のマーケティングや広告戦略をやった「近藤利兵衛」といいます。
近藤利兵衛は三代続いて、祖父は三代目。
祖母は、当時「北のウォール街」と言われた小樽の出身で、祖父と出会ったのは上海だそうだ。
晩年は没落して祖母と二人で暮らしていましたが、一軒家に住み込みの女中さんが二人いた。
子どもだった私は、祖父の家に遊びに行くと多分田舎から出てきたばかりの二十歳にもなっていなかったろうニキビだらけの女中さん達と遊んだ記憶がある。
子どもだった私は、祖父の家に遊びに行くと多分田舎から出てきたばかりの二十歳にもなっていなかったろうニキビだらけの女中さん達と遊んだ記憶がある。
最後は、私が高校生ぐらいの時に今住んでいる世田谷の家に引き取って暮らしていた。
亡くなった時に、満州の土地の証書や台湾の株券とか紙屑同然の書類が山ほど出てきたのを憶えている。
三代目のお坊ちゃんだったから、結構おだてられてバンバン買ってたんだろうな。
残っているのは、今事務所のある高円寺のビルだけだ。
なので、僕は貧乏です。ww
なので、僕は貧乏です。ww
スカイツリーが霞がかかった先に見える。
東京の西側に住んでいるので、めったに見ない。w
我が家のお墓のある、谷中の上野寛永寺は徳川将軍家の墓所としても有名だ。
大奥のお局さまとか。。
意外と鳥居が多い。
神仏習合の名残りか?
谷中霊園は、寛永寺の墓地と都営の墓地に別れているが。
実際には、どこからどこまでとかは歩いても分からない。
広大な死者の都市が続く。。
「トイレの傍らにある・・・」って。。
どこまでも続く墓地墓地。
最近外人の方も来ると、夕方のテレビで言うとった。
花見は来週の週末がピークか。
最後の将軍「徳川慶喜」公の墓所があった。
普通は将軍職にあった人は代々、寛永寺や芝増上寺の「徳川家霊廟」に祭られるのでは?
朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。
このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。
京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである。
という事だったのですね。
休日の散歩も勉強になる。ww